3歳の時に出会った幼なじみと12年ぶりに会いました。
お互いに今や2児の母。子育ての話は勿論のこと、思い出話やお互いのそれまでのことなど、話題は尽きることなく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
いいですね、こういうのは。初めはちょっと照れ臭い気もしましたが、そこは40年近いお付き合い。気負いもなくお互いを語ることが出来ました。一緒に居る間中、ありのままの私を承認して貰っているようで、又、私もありのままの彼女の姿を丸ごと受け容れている自分を感じていて、とても居心地が良かったのでした。
その彼女に今日初めて伝えたことがありました。それは、彼女のお宅での一団欒の姿のこと。彼女は、私たちが小学校3年生の時に転校しました。その後、幾度も彼女のお宅に泊まりに行った私は、その度に羨ましく思ったことがあるのです。
「あなたの家では、必ず家族皆が揃うまでテーブルで待っていて、揃った処で初めて『いただきます』と食事を始めたでしょ。私ね、泊まりに行く度に、とても羨ましいと思っていたの。私の家は、大抵父親の帰宅が遅かったので、母は、食卓に着いてはいたけれど、妹と二人で食べたのよ。母の食事は父親の帰宅後だったから。それに、休日に父親が居ても、何となく食卓に並び始めたところから父親や私たちで食べ始めていたの。だから、あなたの家庭のその姿がとても仲良く和をもっているように見えて・・・・・。」
食事の支度にも、彼女の父親は積極的に関わっていたし、片付けも皆でしたような記憶があります。勿論、今もとても仲のいいご家族です。
今思えば、素晴らしい習慣です。一家団欒の姿がそこにあります。子供の頃は、ただ羨ましいとしか思いませんでしたが、仕事を持つ母でもある今の私には、それが大人達の愛と努力の賜物に思えてなりません。
そうして育まれた彼女は、自己肯定感も高くとても自然体で生きています。それを私は、彼女が家族に「愛された」実感があるからだと思っています。一家団欒は、彼女の暮らしのほんの一こまに過ぎず、「愛された、大事にされた」実感を得るような言動がそこここに散りばめられていました。
今日、彼女との話にも挙がりましたが、家族揃って食事をする回数なんて、長い人生の中、そんなに多くあるものではありません。子育てをしていると、なかなか煩わしいことが多く、早く手が離れないかしら・・・なんて思うこともあります。でも、6年生になる息子を持つ私は、「あと何回3人揃って食卓を囲むことが出来るかしら・・・」と、部活動や塾、友達とのお付き合いやアルバイト等で、一緒に食事をとらなくなる時期が、そう遠くない将来に訪れることに想いを馳せます。
私が子供達に残してやれることは、愛と想い出だけ・・・と、私はいつからか思うようになりました。その想い出の中に、楽しい食事の風景があるように、心がけていきたいものだと、改めて思いました。